僕はまた、旅に出る。

僕はまた、旅に出る。

黄色い夕空の記憶(日常コンピレーション Vol. 15)

 

最後に、黄色い夕空を見上げたのはいつだっただろう。
空気の密度を肌で感じる、初夏の夕暮れ。
定時より、少し早く退勤したある日。二、三駅隣のバス停で下車した僕は、ある場所へと向かっていた。
いつか行こう。そう思っていたスーパー銭湯である。
 
帰宅ラッシュの車が行き交う幹線道路を曲がると、少しこぢんまりとした住宅街があわられる。灯り始めた街灯をなぞっていくと、目的の銭湯に到着した。
 
自動ドアが開く。わずかな冷気が体をすり抜けたのち、鼻先を温泉の香りがかすめていく。平日夕方の、少し賑わいをおさえたエントランスはほんのりと暗い。
 
入館受付を済ませ、暖簾をくぐる。エントランスと同様に、静かでガラガラの浴場を期待したが、その期待は即座に打ち砕かれた。
 
人、人、人。会話は控えられていたものの、浴場はたくさんの人たちで満たされていた。そうか、平日夕方にロビーで休むような、時間浪費をする人はいないのだ。人々は1日の疲れを癒すように目を伏せ、座禅を組むように湯を楽しんでいた。
 
ベタついた体を流し、内湯に入る。自宅では伸ばしきれない足が、伸び切る快感。じわじわとぼやけていく、湯と肌の境界線。暖かな感覚が心地いい。デスクワークで歪んだ体をジェットバスでほぐすと、僕は露天風呂へ向かった。
 
外への扉を開けると、正方形の広い空間が現れる。テレビを囲んで湯に浸かる人。寝湯で脱力する人。プラスチックの白い椅子に寄りかかって放熱する人。それぞれに湯治を楽しんでいるようだ。
 
僕は、たまたま空いていた、一人用の樽湯に浸かった。軒先のような、木製の屋根の下に設置された樽湯は白い湯気が昇っており、天井から注ぐ照明の光で煌めいていた。両肘と頭を樽の淵に乗せ、僕は体を脱力させる。
 
樽に乗せた頭の角度からは、空が見えた。見上げた空の色は、しばらく見なかった色だった。
夕焼けの赤が過ぎ去り、空は、彗星の残り香のような淡い黄色を放っている。輝く黄色は、迫る夜に向かって白へとグラデーションし、その白はさらに夜の藍へと溶け込んでいく。
 
僕は、この空を見たことがある。見覚えのある空に、ふいに、記憶が蘇った。
 
高校生の頃、部活動を終える間際、グラウンドで見上げた空だ。
日没が長くなったものの地上は暗く、ボールが目で追えなくなってくる時間帯。1日が終わるはずなのに、もう少しだけ、今日という日のボーナスタイムが続くようなワクワク感を与えてくれたあの空だ。
まだ、マジックアワーという便利な言葉を知らなかった当時の僕が、その空に、夜が来るのも悪くないな、と思っていた記憶が、樽湯で空を見上げる僕の元に舞い戻ってきたのだ。
 
黄色い夕空の記憶は、当時の他の五感も連れて戻ってきた。
ほんのりと灯り始める、各教室のあかり。
吹奏楽部が奏でる、金管楽器
埃っぽさのある、グラウンドの砂の香り。
部活で汚れた、運動服。
湯で温まっていく体の感覚だけでなく、当時の五感の記憶を身体が思い起こしていた。
 
 
あれだけ打ち込んだ部活から、早10年近くの時が流れている。
それなのになぜ、あの時と同じ空だと認識したのだろう。
実は、表層的には気づいていなかっただけで、あの何気ない時間、夕空の美しさを、大切なものとして心に刻んでいたのかもしれない。
 
銭湯で見上げた、黄色い夕空、そして記憶。体だけでなく、僕の心も温かく満たしてくれたのだった。
 
 
・・・
 
 
ということで、今回は先日感じたことを、小説風に書いてみました。
夕方に寝転んで空を見上げることって、なかなかないですよね。
時間や経験を経ても、同じ感覚を感じられることって、珍しいし、大切にするべきことなのかもな、と思った一件でした。
 
みなさんには、10年前と全く同じ感覚を感じられるものはありますか?
そういったものは、もしかしたら、自分にとって大切なものだったりするかもしれませんね。
是非探してみてください。
 
 
スイス旅行記ですが、今月は忙しかったため、次回は7月中の投稿を目指して準備中です。
まだまだ続きますので、よかったら観ていってください!(チャンネル登録していただけると嬉しいです)
 
 
加えて、先日、久々に旅行に行ってきたので、そちらも旅行記として、合間に投稿しようと思います。お楽しみに!
 
ではまた次回!