僕はまた、旅に出る。

僕はまた、旅に出る。

名字のパラダイムシフトの中で

 

7月から新しい場所に異動になりまして、バタバタしておりました。
新入社員以来、初めての異動ということで、ワクワクドキドキした2週間を過ごしておりました。

 

これまで長らくの間、異動者を見送る側だったのですが、いよいよ異動する側と言うことで、先月頭から、仕事や成果のまとめ、引き継ぎ作成、新部署での立ち上がりと、忙しい状態が続いていました。

 

ようやく、少し落ち着きまして、この一連の動きを振り返ってみると、気付くことがいくつかありました。
・異動が決まってからは、あっけなく、そして、あっという間に時間が過ぎ去ったこと
・決定当初は不安だったはずが、いつのまにかワクワクしてくること
・入社時と違って、同じタイミングで新しい場所に移る同期がいないこと
・新部署での自己紹介や議論では、自分の専門性や経験を活かして話せるようになっていおり、少しだけ、強くなってニューゲームしているような感覚になったこと
・部署のフロアを見渡すと、周りには知らない名前、名字の人しかいないこと

 

色々と、見送る側では得られない新鮮な気付きがありました。

 

この中で、一番印象的だったのは、やはり、周りに知ってる名字の人がいないことだったかなと思います。
井の中の蛙、ならぬ、部の中の蛙といった感じで、まだまだ知らない人が社内にたくさんいることを実感しました。

 

前置きが長くなりましたが、今回は、名字について、以前から時折考えていたことをお話ししようと思います。

 

あらかじめ断っておくと、厳密には、名字(苗字)と姓、氏や家名などは定義などが違うと思いますが、今回は名字に集約して表記します。
使い方が間違っている記述もあるかと思いますが、ご容赦ください。

 

名字のあれこれと、歴史と。

みなさん、名字について、考えたことはありますか?
自分は、これまでの人生で名字について考えたことが、いくつかありました。

 

「名字って何種類ぐらいあるんだろう?」とか、
「名字や名前の漢字の画数が少ない人は、テストでちょっとだけ有利だな」とか、
「名字がかぶる感覚って、どうなんだろう?」とか、
「名字ごとに印象ってあるよね」とか、
「会ってみたら、名字と全然印象の違う人がいた」とか。

 

今回は、名字の歴史を振り返りつつ、名字はこれからどうなっていくのか、話していきたいと思います。

 

名字の起源は平安時代後期らしく、しかも、公家と武士によって、名字の付け方や意味合いが違っていたらしいです。
公家は、家を区別することが名字を名乗る事の目的だったのに対して、武士が、自分の土地の所有権を主張するために、自分の土地の地名を名字として、代々継承するようになったとのことでした。この時、日本の地形の多様さや、開墾による地形変化が、様々な土地に関する名字を産んだのかもしれませんね。

 

江戸時代には、名字許可制があったりとか、許可がないと名乗れない名字があったり、明治時代(1875年)に、明治時代に、国民に名字を持つことが義務付けられた(平民名字必称義務令)とか、歴史を辿ると、今の形の名字は、結構歴史が浅かったりします。この時に、現代に続く、地名、地形風景、方角、職業などから名字を届け出た方もいるので、よりバリエーションが増えたのだと思います。
大阪さん、森さん、西さん、服部さん、鍛治さん、犬飼さん、考えてみると、色々ありますね。

 

一方で、ここで思うわけです、つまり、名字の巨大なうねりはこの時から止まってしまったのではないか、ということです。
何が言いたいかというと、明治時代のこの時に名付けられた名字は、明治時代の文化なども含めて名付けられたが、それ以後、時代に沿って名字が新たに作られたり、変容することがほとんど止まっているんじゃないか、と。

 

もし、全国民に「今の名字をリセットして、新しい名字を作って」と依頼が来たらどうする?

現代でも、名字を変えることは可能です。
ざっくり言うと、家庭裁判所に書類を提出して、やむおえない理由を裁判官に説明して、裁判所から許可をもらう、そのご役所に提出すればいいとのことです。
この、やむおえない理由というのは、「元の姓に戻す」、「外国人配偶者の姓にする」、「奇妙な名字である」などが該当するようでした。
なかなか大変なので、現実で名字のバリエーションは増えなかったのはここに理由があったのですね。

 

仮に、現代の名字に改名できるとすれば、昭和以降誕生した(定義づけられたもの)すべてのものが、名字の対象になると思います。
物体で言えば、新幹線、リニアモーターカー、カメラ、パソコン、テレビ、スマホ、ゲーム機
職業で言えば、明治以降では、電話交換手、紙芝居や、竿竹屋、平成から生まれた職業でも、IT系の職業や、心理カウンセラーに、ネイリスト、最近ではプロゲーマーなどがあったりします。
そのほか、デジタル世界でも色々と新しい概念が生まれました。
これらを名字に使うこともできるはずです。

 

もしも、新しい名字を名乗っていいとしたら、あなたは、なんという名字に改名するでしょうか?

 

名字で溢れる創作の世界

一方、創作の世界では、インターネットの発展に伴い、おそらく新しい名字が指数関数的に増えているはずです。
古くは小説、身近なSNSのアカウント名から、最近ではバーチャルユーチューバーなど、創造(もしかしたらこちらが現実?)の世界の中では、より自由で発想豊かな名字や名前が生まれ続けています。
加えて、日本のネットは匿名文化であるため、他国に加えて、これからもさらに名字が増えていくことが見込めそうです。

 

名字の未来はいかに?

おそらく、現実空間での名字は、少子高齢化に伴い、減っていくことは確実でしょう。人口の多い名字の方が残れる可能性が高いので、人口の少ない名字から消滅してしまうことになると思います。
2100年の人口推移予想は、4600-6400万人なので、
名字ランキングを見ると、1位の「佐藤さん」から20位「清水さん」までの合計人数が、おおよそ1870万人で、現在の人口の約16%なので、この比率がより高くなるのかもしれません。

 

現実世界とバーチャル世界の立場が反転した場合、世界は名字で溢れるのか?

仮に、現実とバーチャルの立場が反転すると、現実世界の名字はどのような役割になるのでしょうか?
識別することさえできればいいので、名字の多様性はなくなるかもしれません。例えるなら、ゲームでの個人IDが、現実側になるということ。ある意味、現実ではマイナンバーだけを持っている、というような状態でしょうか。
さすがに、現実的には、番号で呼び合うのはコミュニケーションに難があるので、バーチャル世界側の名字を名乗ることにはなると思います。
また、バーチャル世界では、見た目や種族も自由自在です。自分の現実世界の先天的に与えられた肉体や立場にとらわれず、気軽に自由な名前を名乗れるので、これまでの名字の概念にとらわれない新しい名字も出てくるかもしれませんね。
もしかしたら、日本人は外来語ベースの名字に憧れ、日本好きの外国人は漢字にあこがれて、漢字やアルファベット、ひらがなにアラビア文字を併せ持つ、独自の名字が作られるかもしれません。

 

まとめ

・名字の歴史と、名字のこれからについて考えてみました。
・果たして、この先、世界は名字で溢れていくのでしょうか。それとも、世界は佐藤で溢れるのでしょうか。もしかしたら、我々はそのパラダイムシフトの中に身を置いているのかもしれません。
・また、未来の世界を予想することは、もしかしたら、みらいの名字を予測することにつながるのかもしれません。
・バーチャル世界に移る方は、名字の用意をお忘れ無く。