僕はまた、旅に出る。

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墓参りと、生者の"親近感"、死者の"孤独感"

 

先日、海外の方とお話しする機会があり、お盆の話になりました。

 

「もうすぐ日本では”お盆”があるね。ホームタウンに帰ると思うけど、墓参りに行くの?」

「帰るかどうかは、世間の状況次第ですね」

「そうなんだ。そういえば、日本の”お盆”って合理的だよね。うちなんて、親族でも、墓があっちこっち離れた場所で一度に回り切ることができないよ」

 

確かに。

考えると、日本人のまぁまぁの人が経験する、お盆の墓参りですが、日本の墓が"一族で供用していること”で、まとめて先祖・先だった親族に参ることができるため、容易にできているものだったな、と改めて思いました。

海外で土葬文化の地域では、体が残るので、基本的に個人の墓が多いように思います。つまり、後年、親類の方が亡くなった場合に、同じ墓に入ることが難しく、別でお墓を作る必要が出てきます。
その際、先に作られた個人の墓の近辺にスペースがあるとは限らないため、近くに墓が造られない可能性が高いと推測できます。加えて、亡くなった体を火葬しないと言うことは、別の土地で亡くなった際の輸送費がさらにかかることになります。こういった経緯もあり、親族で集まってそれぞれの墓を作るというのが、一般人にとって難しいのではないかと推測されます。

 

個人の墓・一族の墓では、生者の親近感・死者の孤独感が違いそう

個人の墓と一族の墓について考えた時、思ったのが、墓と自分の間に明確な線引きがあるな、と感じたことでした。

具体的には、個人の墓は、自分と相手、という明確な線引きがされるものの、一族の墓は、遺言等、個人で新しい自分用の墓を作ってほしいという意志がなければ、自分もこの墓に入る可能性があるため、墓と自分の間に線が引かれません。そのため、一族の墓の方が、親近感が湧くような気がします。

そう考えると、個人の墓は、仮に自分が死者の立場だった時に、自分の周りに親族がいる保証はなく、そうなってしまった場合に、ちょっと寂しい気がするかもなぁと思いました。

 

しいて、日本の墓参り習慣の変えるべきところを挙げるとするならば

夏にやるべきではない、ですよね。

死者の帰ってくる、お盆(夏)におこなう、という文化自体は悪くないと思います。

しかしながら、近年の異常気象を鑑みるに、酷暑に墓参りに行くということは、石窯オーブンに足を踏み入れるのと大差がないです。

人が集まる時期、というのが、お盆や年末年始しかない、というのはあるかもしれませんが、もう少し、気候が優しい季節にずらすべきではないかと個人的には思います。

もちろん、みなさん事情はあるし、親族が集まるタイミングで、というのはいいこと思うので、お墓参りされる方は、早朝等、生命リスクのない時間に参られることをお勧めします…。

 

まとめ

海外と日本の墓参りから、一族の墓の親近感や個人の墓の孤独感を書き出してみました。

よく考えたら、個人の墓、ということは、海外の方が墓の数が多いので、放置率も高そうだなと思いました。

それに、複数人が集約されることで、関連する親族も多く、管理の観点で、いいシステムのような気もします。

もちろん、一人で安らかに眠りたい、ということに答えられるメリットが個人の墓にもあるし、昨今、散骨・自然葬など、さまざまな”旅立ち"スタイルがあるので、自分に合ったものが選べるといいですね。

 

明日は、ルービックキューブの話を書こうと思います。

 

今回のサムネイルは、以前投稿したツェルマッドのハイキング動画、リッフェルベルグ駅の手前あたりで積み上げられていた石の塔になります。

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